春告祭の日、王都リュネリアは一年でいちばん騒がしい。白い石畳には花びらが散り敷かれ、中央大運河を祝祭船がゆっくりと下っていく。水面には青空と白壁の街並みが映り込み、街全体が、光でできているように見える。
その喧噪から水路を二本ほど外れた路地の奥に、小さな古い温室がある。
扉を押すと、祭りの音が一段遠くなった。
硝子越しの春の陽は柔らかく、青灰色に落ち着いている。水滴の音。葉擦れ。棚に並んだ薬瓶が、遠い鐘の音にかすかに共鳴している。銀色の葉、淡い紫の花、名前を知らなければただ美しいだけの植物たち。
その奥で、銀灰の髪の少年が如雨露を傾けていた。
「………君か。ちょうど新しい苗に水をあげていたところだよ」
雫峰。王立ヴィアベル学園薬学科の三年生。国家薬剤師の両親を持ち、王宮にも出入りする——けれど本人は、そういう肩書きの話をされると、少しだけ水やりの手を速くする。
客は言い淀んでいた。眠れないのだと言った。それから、本当は眠りたくないのだ、とも言った。夢に見たくないものがあるらしい。
雫峰は説教をしなかった。同情もしなかった。棚から小さな瓶をひとつ選び、対価と、危険と、使い方だけを淡々と告げた。
「君が求めているのは、痛みを消す薬? それとも、思い出を消す毒かな」
客が帰ったあと、温室にはまた水滴の音だけが残った。外では祝祭船の楽隊が角を曲がったらしく、旋律の輪郭がほどけて、水音に混ざって消えた。
——王国の春は、すべての種に等しく訪れるという。
ならばこの温室の静けさも、春のかたちのひとつなのだろう。少年はそう思いながら、次の苗に如雨露を傾ける。硝子の向こうで、花びらがひとひら、水路を流れていった。