
「泣くなとは言わない。
だが、泣いた後に何をするかは決めておけ。」
SS.01 三十分の約束凌岈 & 雫峰 +
日が落ちても、温室の灯りが消えていなかった。
学園の校舎から生徒の姿が減り始め、運河沿いの道にも夜の気配が降りている。
凌岈が温室の扉を開けると、雫峰は作業台に向かったまま振り返らなかった。
「こんばんは、凌岈さん」
「飯は?」
挨拶より先に飛んできた言葉に、雫峰が少しだけ手を止める。
「食べました」
凌岈は黙って机を見る。
薬瓶。
開いたままのノート。
切り分けられた薬草。
小さな鉢がいくつか。
食事らしいものは、どこにもない。
「食べてないな」
「……鋭いですね」
凌岈は持っていた紙袋を作業台の端に置く。
「食え」
「お腹、すいてないんで」
「倒れられると面倒だ」
雫峰が紙袋を覗く。
まだ温かいパンが二つ入っていた。
「……わざわざ買ってきたんですか?」
「パン屋は帰り道にある」
「ここの温室、寮とは反対方向ですよね」
凌岈が黙る。
雫峰は少しだけ口元を緩めた。
「凌岈さんって、過保護ですよね」
「お前は植物の管理は上手いが、自分の管理はできてない」
きっぱりとした口調に、雫峰は思わず吹き出した。
「あはは。否定できないな」
「昨日も寝るのが遅かっただろ」
「どうして知ってるんです?」
「朝、顔色が悪かった」
「よく見てますね」
凌岈からの返事はない。
雫峰は紙袋からパンを一つ取り出した。
「……いただきます」
「最初からそうしろ」
「お礼くらい言わせてくださいよ」
凌岈は返事をせず、温室を見回した。
窓際では、夜にしか花を開かない魔法植物が淡く光っている。
昼間とは違う青白い光が、夜に浮かんでいた。
「それか」
「うん。今夜咲くと思ってたんです」
雫峰も窓際へ目を向ける。
「開花直後にしか記録できない変化があるので、もう少し見ていたくて」
「だから飯を忘れたのか」
「忘れたわけじゃないですよ」
「後回しにした」
雫峰は少し笑ってから、諦めたようにパンを一口かじった。
凌岈は時計を見る。
「それが終わったら帰れ。学園も閉門になるぞ」
「あと一時間だけ」
「三十分」
「四十五分」
「三十分」
「四十分」
「三十分」
「……凌岈さん、昔からこういうところ変わらないですよね」
「お前も変わってない」
「僕?」
「何かに夢中になると、周りが見えなくなる」
雫峰は少し考える。
「そうかな」
「そうだ」
雫峰は小さく笑って、残りのパンを食べる。
それを確認してから、凌岈はようやく近くの椅子に腰を下ろした。
「……凌岈さんも待つんですか?」
「三十分だけな」
「僕、一人で帰れますよ」
凌岈は窓際の花を見たまま答えた。
「お前は三十分で終わらない」
雫峰が目を瞬く。
「信用ないなあ」
「実績がある」
「あはは」
温室に、雫峰の笑い声が小さく響いた。
それから二人はしばらく何も話さなかった。
凌岈は急かさず、雫峰も追い返さない。
夜の花がゆっくりと開いていくのを、二人で黙って眺める。
やがて雫峰が、残ったもう一つのパンに手を伸ばした。
凌岈は何も言わなかった。
ただ、それを見てから少しだけ椅子に深く腰掛けた。
SS.02 遠回りの道凌岈 & 翠琉 +
夕刻の大通りは、いつも以上に混み合っていた。
翌日に控えた王国の祝祭を前に、通りには色とりどりの旗が掲げられ、露店の準備をする人々の声が絶えない。
「賑やかだねえ」
隣を歩く翠琉が、楽しそうに笑う。
「明日はもっとすごいらしいよ。パレードに、演奏会に、夜は花火だって」
「そうか」
「反応薄いなあ。若者らしく楽しみにしたら?」
「人が多い」
「狼くんは人混みが苦手かな?」
「お前ほどじゃない」
翠琉の足が、一瞬だけ止まった。
凌岈はそのまま歩く。
「なんの話?」
「別に」
振り返りもしない。
翠琉は数歩遅れてから、また隣に並んだ。
「やだなあ。俺、人が大好きだよ?」
「知ってる」
「でしょう?」
「誰にでも笑う」
「社交的だと言ってほしいな」
「誰にでも同じ顔をする」
今度こそ、翠琉が黙った。
大通りの向こうでは、人間の子どもたちが旗を振って走っている。
明日の祭りを待ちきれないらしい。
翠琉はしばらくそれを見つめてから、小さく笑った。
「君ってさあ、余計なところまで見てるし、言わなくていいことまで言うよね」
「見えたことを言っただけだ」
「それ、女の子に嫌われるよ~?」
「別に困らない」
交差路に差しかかり、凌岈は突然右へ曲がった。
翠琉が首を傾げる。
「そっち、遠回りじゃない?」
「ああ」
「寮なら真っ直ぐだけど」
「わかってる」
その先は、運河沿いの細い道だった。
人通りは少なく、祭りの喧騒も少し遠くなる。
水面を渡る夕方の風に、翠琉の長い髪が揺れた。
数歩歩いてから、翠琉が横目で凌岈を見る。
「……もしかして俺に気を遣った?」
「人が多くて歩きにくいだけだ」
「ふうん」
翠琉は、こちらを見ようともしない凌岈の横顔を見て笑った。
「じゃあ、そういうことにしておいてあげる」
「好きにしろ」
しばらく、二人は黙って歩いた。
やがて翠琉が口を開く。
「ねえ、凌岈」
「なんだ」
「君ってさ、俺が本当に嫌がることは訊かないよね」
凌岈は少しだけ眉を寄せた。
「言いたければ、お前から言うだろ」
それだけだった。
励ましもしない。
理由も訊かない。
わかったような顔もしない。
翠琉は一度目を丸くして、それから、いつものように笑った。
「……そういうところ、ずるいよねえ」
「何がだ」
「教えない」
「なら訊かん」
「可愛げがない狼くんだねえ」
「お前に言われたくない」
春の夕暮れの中、二人の声だけが静かな運河に落ちていった。