
「君たち人間は本当に急ぐね。
花が咲くのを待つ時間すら、惜しいの?」
SS.01 雪解けを待たない花翠琉 & 雫峰 +
「雫峰くーん、遊びに来たよ」
「帰ってください」
温室の扉を開けた瞬間、返事が飛んできた。
翠琉は気にせず中へ入る。
「先輩に対して冷たくない?」
「招いていない人は客ではないので」
「なるほど。じゃあ不法侵入者か」
「自覚があるなら助かります」
雫峰は作業台に向かったまま、こちらを見ようともしない。
翠琉は慣れた様子で温室の中を歩いた。
外では春の陽射しが白い石畳を照らしているというのに、ここにはいつも少しだけ違う時間が流れている。
湿った土の匂い。
薬草の青い香り。
規則正しく並んだ鉢と、静かな水音。
「相変わらず落ち着くねえ、ここ」
「勝手にくつろがないでください」
「褒めてるんだよ~?」
「ありがとうございます。ではお帰りください」
「手強いなあ」
いつものやり取りをしながら、翠琉は棚の前で足を止めた。
銀色の細い葉。
淡い紫色の、小さな花。
他の植物に隠れるようにして、一輪だけ咲いている。
翠琉の目が、わずかに細くなった。
「……懐かしいな」
声から、ほんの少しだけ軽さが消えた。
雫峰が顔を上げる。
翠琉は葉には触れず、その前にしゃがみ込んだ。
「これ、どこで手に入れたの?」
「北部の薬草商から苗を譲ってもらいました。珍しいものですけど、先輩も知ってるんですね」
「まあね」
翠琉は花を眺めたまま答えた。
「昔は、別の名前で呼ばれてたんだよ」
そして、人の言葉ではない、短い音を口にした。
古く、柔らかな響き。
葉を揺らす風に紛れれば、そのまま消えてしまいそうな音だった。
「意味は?」
「雪解けを待たない花、だよ」
「ずいぶんせっかちな名前ですね」
「君たち人間ほどじゃないよ」
翠琉が笑う。
雫峰は手元の本を一冊めくった。
「今は《銀雪草》と呼ばれています」
「うん、知ってる」
「薬学書には、百五十年ほど前に王立植物院で命名されたとありますね」
「へえ。じゃあ百五十年前から、この子は銀雪草になったんだ」
その言い方が妙だった。
雫峰は翠琉を見る。
「気に入らないんですか?」
「別に?」
翠琉はいつもの笑顔を浮かべた。
「名前なんて、その時そこにいる人が好きに付ければいいでしょ」
「そうですね」
雫峰はあっさり頷いた。
「名前が変わっても、この植物の性質は変わりませんから」
翠琉が瞬きをする。
「春先に花をつける。寒さには強いけど、高温と過湿には弱い。根には微弱な毒性がある」
雫峰は本を閉じた。
「違う名前になっても、育て方まで変わるわけじゃないですし」
淡々と話す雫峰の言葉を聞いて、翠琉は小さく吹き出した。
「雫峰くんって、たまにすごく身も蓋もないこと言うよねえ」
「間違ってます?」
「ううん」
翠琉はもう一度、淡紫色の花を見る。
「そういうところ、けっこう好きだよ」
「どうも」
雫峰は興味がなさそうに作業へ戻った。
温室に、しばらく静かな時間が流れる。
翠琉は立ち上がると、隣の鉢へ手を伸ばした。
「……先輩」
「ん?」
「その植物には触らないでください。毒があります」
翠琉の手が止まる。
「心配してくれるの?」
「他の鉢を倒されたくないだけです」
「俺の命より鉢?」
「先輩なら、その程度の毒では死なないでしょう」
「信頼されてるなあ」
「はい。頑丈さは信頼してます」
「雫峰くん、今日も可愛いねえ」
「……帰ってください」
そう言いながら、雫峰はもう翠琉の方を見ていなかった。
けれど、温室の扉を指すこともしなかった。
SS.02 刻まれなかった名前翠琉 & 凌岈 +
放課後の運河沿いは、今日も人で賑わっていた。
白い石造りの広場では、新しく建てられた記念碑を囲んで、生徒たちが楽しそうに写真を撮っている。
その昔、王国を守るために戦った者たちを讃えるものらしい。
「へえ。立派なもの作ったねえ」
翠琉が足を止めた。
金色の文字で刻まれた碑文を、上から下までゆっくりと眺める。
『王国のために命を捧げた、勇敢なるすべての者へ――』
「すべての者、だって」
隣にいた凌岈が、翠琉を見る。
「何かおかしいか」
「いや?素敵な言葉だなと思って」
翠琉は笑った。
いつもと同じ、誰にでも向ける人当たりのいい笑顔だった。
「時間が経てば、ずいぶん綺麗に書けるものなんだね」
凌岈はもう一度、碑文へ目を向けた。
「載っていない名前があるのか」
翠琉の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……どうだろうね」
「知っているんだろ」
「さあ?」
軽く肩をすくめる。
広場では、記念碑を背景に下級生たちが笑っていた。
春の日差しが水路に反射して、白い石畳を明るく照らしている。
翠琉はそんな光景を眺めながら、静かに言った。
「別に、書いてあることが嘘だとは言わないよ」
「なら何が気に入らない」
「嘘じゃなければ、本当になるのかなって思っただけ」
凌岈は黙った。
翠琉はまた笑う。
「やだなあ、お兄さん。そんな顔しないでよ。俺、王国に喧嘩売ってるみたいじゃない?」
「売る気があるなら止める」
「ないない。面倒くさいし」
「ならいい」
あっさりした返事だった。
翠琉が目を瞬く。
「……それだけ?」
「俺は百年前を知らない」
「うん」
「お前は知っている」
「まあね」
「なら、お前が忘れなければいいんじゃないか」
翠琉は何も言わなかった。
石碑の向こうでは、若い生徒たちが笑っている。
きっと彼らは、ここに刻まれなかったものを知らない。
知らないまま、この国の春を綺麗だと思って生きていく。
「君ってさあ」
ようやく翠琉が口を開く。
「もうちょっと気の利いた慰め方とか知らないの?」
「慰めてない」
「知ってるよ」
今度の笑みは、少しだけ違った。
翠琉は記念碑に背を向ける。
「帰ろっか。お腹へったし」
「さっき菓子を食っていただろ」
「長寿種は燃費が悪いんだよ」
「初めて聞いた」
「俺がいま作ったからねぇ」
凌岈はため息をついて歩き出した。