— 夜想喫茶 灯下堂 —

灯下堂のワンシーン

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古い石畳の、静かな路地裏。
表通りの看板の光も、車の音も、人の笑い声も、曲がり角をひとつ折れただけで急に遠のいていく。細い石畳の道には、雨上がりの湿った匂いが残っていて、古いビルの壁に絡んだ蔦だけが、街の灯りをぼんやり受けていた。

その奥に、ひとつだけ灯りがある。

木製の扉。曇りガラス。真鍮の小さなプレート。
――夜想喫茶 灯下堂。

知らなければ通り過ぎる。
知っていても、少し迷うような。
そんな場所に、その店はあった。

扉を開けると、からん、と控えめなベルが鳴る。
中には古い時計が並んでいた。柱時計、懐中時計、丸い置時計。針の音が幾重にも重なっているのに、不思議とうるさくはない。むしろ、外の世界から切り離されるための音のようだった。

カウンターの奥で、士堂は布巾を畳んでいた。

「……遅いな」

誰に向けた言葉でもない。低く、少し掠れた声が、琥珀色の照明に溶ける。

そのとき、裏口に近い席で本を読んでいた夜邑が、ページから視線を上げた。

「日瑚なら、途中で猫を見つけたらしいですよ」

「またか」

「写真、二十枚送られてきました」

夜邑はそう言って、スマホの画面を見せた。士堂は小さく息を吐いた。

「猫にまで距離が近いのか、あいつは」

その言葉に夜邑の口元が、ほんの少しだけ動く。
笑った、というには静かすぎる変化だった。

その瞬間、表の扉が勢いよく開いた。

「ねぇねぇねぇ!見て見て見て!めっちゃ可愛い猫いた!やばい、路地裏の主って感じ! 俺、完全に認められた!」

明るい髪。大きな声。濡れた石畳を走ってきたのか、靴先に小さな水滴がついている。手にはスマホ、顔には日瑚という名前を表すような満面の笑み。

「夜邑くん見た!?最後のやつ!あれ絶対俺にウインクしてたよね!?」

「目、片方閉じてただけじゃない」

「それをウインクって言うんだよ!」

「猫には言わないんじゃない?」

「えー!言うでしょ!」

にぱーっと笑う日瑚の声に、柱時計の音が一瞬だけ負けた。
士堂はカウンター越しに、日瑚の靴を見た。

「床」

「あっ、ごめん!」

「拭いとけよ」

「はーい!」

士堂が差し出した布を受け取ると、妙に楽しそうに床を拭き始めた。反省しているのか、遊んでいるのか、その境目は曖昧だった。

夜邑はまた本に目を落とす。けれど、ページはめくらない。

しばらくして、もう一度ベルが鳴った。今度の音は、少しだけ慎重だった。

入ってきた青年は、キャップを深く被り、眼鏡をかけ、黒いパーカーのフードを軽く引き上げていた。表通りなら誰も振り返らない。けれど、この店にいる者たちは、誰も騙されない。

夜邑が顔を上げる。

「おつかれ」

その一言で、燈裡は肩から力を抜いた。

「……マジで疲れた」

テレビの中なら、きっと太陽みたいに笑っている。
雑誌の表紙なら、まっすぐこちらを見ている。
ステージの上なら、誰かの瞳を照らしている。

でも今、灯下堂の扉を閉めた燈裡は、ただの二十歳の青年だった。

「コーラ」

「はいよ」

夜邑が立ち上がるより先に、士堂がグラスを用意していた。氷がからりと鳴る。

日瑚が床拭きの姿勢のまま振り返る。

「あっくん!今朝テレビ出てたよね!?俺見たよ!あの曲の最後の顔、めっちゃ良かった!」

燈裡は一瞬だけ固まった。そして、眉間に皺を寄せる。

「……お前、床拭きながら人の仕事の話すんな」

「いやほんと良かったんだよ!なんかさ、きらきらしてたね!」

「語彙」

「光ってたってこと!」

「同じだろ」

「じゃあ、輝いてた!」

「くっそうざい」

燈裡は面倒くさそうに顔をそむけた。
その耳が少しだけ赤いのを、夜邑だけが見ていた。

「よかったね」

夜邑が静かに言う。

「は?なにもよくねぇだろ」

燈裡は乱暴に返したが、声には棘がなかった。カウンター席に沈むように座り、出されたコーラを一口飲む。

士堂はその様子を見て、何も聞かなかった。
何があったのか。どんな顔で笑ってきたのか。誰に何を求められたのか。
聞かなくてもわかることと、聞かないほうがいいことがある。

「あ、そうだ!」

その沈黙を、当然のように日瑚が破った。

「俺、思いついたんだけど!」

燈裡が露骨に嫌な顔をした。

「もう嫌な予感しかしねぇ」

「今度さ、この店で一日だけ展示やろうよ!時計とポップアート!あっくんは変装して歌って、よむよむは朗読とか?士堂さんは……渋く立ってるだけでいいかな」

「最後だけ雑だな」

「歌わねぇよ!なんで身バレ寸前ライブしなきゃなんねぇんだよ!」

「大丈夫、タイトルは『匿名のアカリ』にする!」

「バラしにいってんじゃねぇか!」

日瑚は楽しそうに笑う。
燈裡は怒鳴る。
夜邑は口元だけで笑う。
士堂はカウンターの向こうで、深くため息をつく。

「……お前たちな」

路地裏の小さな灯りの下。
役割を背負った者も、何も背負っていないように見える者も、
過去を語らない者も、言葉少なに隣にいる者も。
今夜もまた、同じ場所に集まる。

古い時計の針が進む音の中で、
誰もが少しだけ、ただの自分に戻っていく。

士堂は黙って、四人分のグラスを並べた。

「展示は却下だ」

「えー!」

「燈裡、朗読なら考えてもいいんじゃない?」

「お前も乗るな!ていうか朗読はお前がやれよ!」

日瑚が、また笑う。

灯下堂の夜は、
今日もまだ始まったばかりだった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 07 —

カウンターの内側

灯下堂は、まだ客を入れる前の匂いがしていた。

磨いたばかりのカウンターには、低い照明が細く映っている。棚の奥では、伏せたカップの白や、背の高いグラスの縁が、暗がりの中で静かに並んでいた。
その内側に、夜邑が立っている。

店の奥では、士堂が古い時計の部品を整理していた。
小さな歯車が皿の上でかすかに触れ合い、その音だけが、開店前の灯下堂に残っている。

「士堂さん」

「なんだ」

「このカップ、ここで合ってますか?」

士堂は手元から目だけを上げた。
夜邑がカップを手に、棚を指さす。

「そいつは左から三番目だ」

「二番目にしたんじゃなく?」

「どういうことだ?」

「昨日は二番目にあったので」

士堂の指先が、歯車の上で止まった。

「……よく見てるな」

夜邑はカップを左から三番目の位置に戻した。
陶器が棚板に触れて、小さく鳴る。

「こういう配置、決まってるんですか」

夜邑は棚の前から一歩引いて、カップの列を見直した。
白いもの、薄く青の入ったもの、口の広いもの。どれも少しずつ高さが違うのに、並びは不思議と乱れていない。

「一応な」

「一応にしては、ずれると気にしますよね」

士堂は皿の上の部品を仕分けながら、少しだけ目を細めた。

「なら覚えろ」

夜邑はもう一度、棚を見た。
並んだカップやグラスの高さ、間隔、置き方。
そこには、士堂の癖と、この店に流れてきた時間が、少しだけ残っている気がした。

「……わかりました」

士堂は時計の部品を置き、カウンターの中へ入ってきた。
夜邑の隣に立つと、棚ではなく入口のほうへ顎を向ける。

「あと、ここに立つときは、客の顔ばかり見るな」

「見てません」

「見てるだろう」

そのとき、入口のベルが鳴った。
夜邑は反射的に背筋を伸ばした。けれどすぐには声を出さず、ほんの少しだけ間を置いてから、入口へ顔を向ける。

「いらっしゃいませ」

声は大きくない。
けれど、灯下堂の静けさにはちょうどよかった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 01 —

疲れた青年と、コーラ

灯下堂の扉のベルが鳴った。
いつものように軽く跳ねる音ではなく、少しだけ慎重な音だった。
開けた人間が、なるべく目立たないように扉を押したのだとわかる。

夜邑はカウンターの内側で、伏せていたグラスを棚へ戻していた。
音に気づいて顔を上げる。

入ってきた青年は、キャップを深く被り、眼鏡をかけ、その上からパーカーのフードを被っていた。
顔の半分は影になっていて、外の通りから見れば、誰なのかすぐにはわからない。

「おつかれ」

その一言で、燈裡は肩から力を抜いた。

「……マジで疲れた」

扉が閉まる。
ベルの余韻が、店の静けさに溶けていった。

テレビの中なら、きっと太陽みたいに笑っている。
雑誌の表紙なら、まっすぐこちらを見ている。
ステージの上なら、誰かの瞳を照らしている。
でも今、灯下堂の扉を閉めた燈裡は、ただの二十歳の青年だった。

フードの奥で、燈裡は小さく息を吐く。
外に置いてきた顔を、まだ完全には脱ぎきれていないみたいだった。

「誰もいない?」

「いない」

「士堂さんは?」

「いるよ」

「じゃあ誰もいないのと一緒か」

「聞こえてるぞ」

カウンターの奥から、士堂の声がした。
燈裡は少しだけ笑った。
その笑い方も、画面の中で見るものよりずっと薄い。

「すんません」

「謝る気ないだろ」

「そんなことないっす」

燈裡がカウンターの椅子に近づく。
座るより先に、士堂はもうコーラを用意していた。

「ここ、置いておくぞ」

「あざす」

燈裡は椅子に座ると、背中を丸めるようにして深く息を吐いた。
キャップもフードも取らないまま、グラスを両手で包む。
冷えた水滴が指に触れて、ようやく少しだけ現実に戻ってきたような顔をした。

夜邑はそれを見ていたが、何があったのかは聞かなかった。
士堂も何も言わず、カウンターの奥でグラスを磨いている。

燈裡はコーラを一口飲む。
それから、やっとフードを外した。
キャップのつばの下で乱れた髪が少し見える。

「……ただいまって感じするわ」

夜邑は少しだけ目を上げて、棚に戻しかけていたグラスを、そっと置いた。

「じゃあ、休んでいけば」

「ん」

燈裡はもう一度、深く息を吐いた。
今度の息は、さっきより少しだけ軽かった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 02 —

路地裏の主

窓の外では、先ほどまで降っていた雨が石畳を濡らしていた。
通りを行く人の足音はいつもより少なく、店の中には柱時計の音と、カウンターの奥で湯の沸くかすかな音だけがある。

その静けさを破るように、扉が勢いよく開いた。
カランカラン、とベルが賑やかに鳴る。

「ねぇねぇねぇ!見て見て見て!めっちゃ可愛い猫いた!路地裏の主って感じ! 俺、完全に認められた!」

飛び込んできたのは日瑚だった。
明るい髪。大きな声。手にはスマホ。
濡れた石畳を走ってきたのか、靴先には小さな水滴がついている。
肩も少し雨に濡れていて、パーカーの袖口の色が濃くなっていた。
顔には、日瑚という名前をそのまま表したみたいな満面の笑みがある。

「夜邑くん見て!これ絶対俺にウインクしてるよね!?」

日瑚はカウンターに駆け寄って、スマホの画面を夜邑の前に差し出した。
画面の中には、路地裏の濡れた室外機の上に座る猫がいた。
灰色まじりの毛を少し膨らませて、片目だけを細く閉じている。
夜邑は本から顔を上げ、画面を覗き込む。

「目、片方閉じてるだけじゃない」

「それをウインクって言うんだよ!」

「猫には言わないんじゃない?」

「えー!言うでしょ!」

日瑚はにぱっと笑った。
その声に、柱時計の音が一瞬だけ負けた。

カウンターの奥で、士堂が布巾を持ったまま目を細める。

「騒がしいな」

「あっ、見てよ士堂さん、この猫!絶対この路地のボスだよ!」

日瑚は笑って、濡れた前髪を指で軽く払った。
床に小さな水滴が落ちる。
その足元から、泥の混じった水の跡が、入口からカウンターまで点々と続いていた。

士堂が無言で日瑚の足元を見た。
日瑚はその視線に気づいて、ぱっと背筋を伸ばす。

「あ、拭く!拭きます!」

入口のマットの上で、日瑚が靴先をばたばたさせる。
雨の匂いが、開いた扉の名残みたいに店の中へ少しだけ入り込んでいた。

夜邑はカウンター越しに、もう一度スマホの中の猫を見る。
片目を閉じた灰色の猫は、確かに主のような顔をして偉そうで、少しだけ可愛かった。

「……可愛いね」

夜邑が小さく言う。
日瑚の顔が、ぱっと明るくなった。

「でしょ!?」

また声が大きくなる。
柱時計が、こつ、こつ、と音を刻む。
曇った空とは反対に、灯下堂は少しだけ明るかった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 03 —

匿名のアカリ

「俺、思いついたんだけど!」

日瑚の明るい声が、灯下堂の中に弾んだ。
カウンターの端では燈裡がコーラを飲んでいて、夜邑はその隣で本を開いている。
士堂はカウンターの向こうで、古い時計の部品を布の上に並べていた。

日瑚のその声を聞いた瞬間、燈裡が露骨に嫌な顔をする。

「もう嫌な予感しかしねぇ」

「今度さ、この店で一日だけ展示やろうよ!時計とポップアート!絶対かわいいって。古い時計の横に、めちゃくちゃ派手な絵とか置くの」

日瑚はもう店の中を見回している。
棚の上、壁際、入口の横。日瑚の視線は、置けそうな場所を次々に探していく。

「で、あっくんは変装して歌って、夜邑くんは朗読とか?士堂さんは……渋く立ってるだけでいいかな」

「歌わねぇよ!なんで身バレ寸前ライブしなきゃなんねぇんだよ!」

「大丈夫、タイトルは『匿名のアカリ』にする!」

「バラしにいってんじゃねぇか!」

燈裡が声を上げる。
日瑚は楽しそうに笑う。

「じゃあ仮面つけよ」

「余計怪しいだろ」

「照明暗めにして」

「ここをライブハウスにすんな」

「時計の音に合わせて歌うとか」

「怖ぇよ!」

夜邑は本から顔を上げた。

「朗読って、何を読むの」

「店の説明文とか読んでよ。静かな声で」

「それは朗読じゃなくて案内じゃない?」

夜邑は口元だけで少し笑った。
士堂はカウンターの向こうで、深くため息をつく。

「……お前たちな」

その声に、三人が一斉に士堂を見る。
士堂は並べていた時計の部品から目を上げずに言った。

「まず、店主に許可を取れ」

日瑚がぱっと手を挙げる。

「士堂さん、やっていい?」

「だめだ」

「却下するのはやすぎ!」

「当然だろ」

日瑚はむう、と頬をふくらませた。
燈裡はそれを見て笑い、夜邑はまた本に目を落とす。

カウンターの向こうで、士堂が時計の部品をひとつ摘み上げる。
こつ、と小さな金属音がした。

日瑚の思いつきは、却下されたはずなのに、灯下堂の中にはしばらく、その明るさだけが残っていた。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 04 —

古い時計と、溶けかけのチョコ

灯下堂のカウンターに、古い懐中時計が置かれている。

士堂はルーペを片目に当てたまま、細い工具で中の歯車を調整していた。

店内には、秒針の音だけがいくつも重なっている。

「ねぇ士堂さん。これ、動くようになるの?」

日瑚がカウンターに肘をつきながら覗き込む。

「なる」

士堂は短く答える。

「え、かっこよ。こんな古いのなおるんだ」

「大袈裟だな、ただの修理だ」

夜邑は端の席で本を開いたまま、その一瞬を見ていた。ページをめくる音だけが小さく響く。

「士堂さん、チョコある?」

日瑚が突然言った。

「ない」

「あるでしょ。絶対ある顔してる」

士堂は無言で工具が入っている引き出しを閉めた。閉めるのが少し遅かったせいで、銀紙の包みがひとつ見えた。

「あっ!ほらー!」

日瑚が笑う。夜邑も、声を出さずに口元だけで笑った。

「……一個だけだぞ」

士堂は観念したように、チョコをひとつカウンターへ置く。

日瑚はそれを受け取り、半分に割って夜邑に渡した。

「げっと!夜邑くんも食べよ」

「別に俺はいらないんだけど……」

そう言いながら、夜邑は受け取る。

士堂は何も言わず、また懐中時計へ視線を戻した。けれどその横顔は、さっきよりほんの少しだけ柔らかかった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 05 —

眠れないアイドル

灯下堂は、閉店間際の静けさに沈んでいた。
客の気配はもうなく、カウンターの上には拭き終えた跡が淡く残っている。
入口の外では、雨のやんだ路面を、ときどき車の音が遠く滑っていった。

それでも、燈裡はまだカウンターにいた。
目の前のコーラは、氷だけが残っている。
グラスの底で溶けかけた氷が、薄い音を立てた。

「帰らないの」

夜邑が本を閉じながら言った。

「帰る」

「さっきも言ったじゃない」

「今から帰る」

「それもさっき言ってたよ」

燈裡は返事をせず、空になったグラスを指先で少し回した。
からん、と氷が小さく鳴る。

士堂がカウンターの奥から言った。

「明日、早いんじゃなかったか」

「早いっすね」

「なら寝ろ」

「そっすね」

キャップのつばの下で、燈裡の目はグラスの中ばかり見ている。
帰りたくないというより、帰ったあとに来る時間を避けているように見えた。
けれど、夜邑はそれを口にはしなかった。

「明日の現場、嫌なの?」

「別に」

「じゃあ、眠れないだけ?」

「……お前、そういうとこあるよな」

「どういうとこ?」

燈裡は少し笑った。
笑ったあとで、また黙った。

店の奥で、士堂が洗い終えたグラスを棚に戻す音がした。
ひとつ、ふたつ。
静かな店内では、それだけでも夜が少し深くなったように聞こえる。

「小学生のときさ」

「うん」

「発表会の前の日、俺、眠れなかったじゃん」

「うん」

「お前、何も言わずに漫画貸してきたよな」

「覚えてない」

「お前、絶対覚えてるだろ」

夜邑は少しだけ目を伏せてから、鞄を開けた。
中から文庫本を一冊出して、カウンターに置く。

「今日は漫画じゃないけど」

「読めって?」

「眠れなかったらね」

「つまんなかったら?」

「よく寝られるだろうね」

「は?つまんないもん貸すなよ」

燈裡は文句を言いながらも、文庫本を手に取った。
表紙を眺め、裏返して、また表に戻す。

士堂が店の灯りをひとつ落とした。
カウンターの端が少し暗くなり、窓の外の夜が、さっきより近く見えた。

「帰るなら送るぞ」

「や、大丈夫っす」

燈裡は椅子から立ち上がった。少し迷うように文庫本を見て、それから鞄に入れる。

「借りるわ」

燈裡はマスクをしてからキャップを深くかぶった。

「じゃ」

「おやすみ」

「夜道、気を付けろよ」

燈裡は返事の代わりに片手を上げて、店を出た。
入口のベルが、閉まる扉の向こうで小さく鳴る。

雨上がりの石畳に、灯下堂の明かりが薄く伸びていた。
燈裡の背中はその明かりを少しだけ踏んで、それから夜のほうへ抜けていった。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 06 —

本の外にある色

「夜邑くん、行こ!」

日瑚が灯下堂のドアを開けるなり言った。
昼下がりの光が、日瑚の背中から店の中へ差し込む。
入口のベルが遅れて小さく鳴り、カウンターで本を読んでいた夜邑は、ページから顔を上げた。

「どこに?」

「わかんない!」

「わからない場所に誘わないで」

「いやほんと、よくわかんないの!」

日瑚はドアを片手で押さえたまま、もう片方の手で外のほうを指した。

「裏道で変な看板見つけたんだよ。青と黄色でさ、めちゃくちゃ変。たぶんギャラリーか雑貨屋か、なんかそういうやつ」

「わかってるじゃない」

「まだ見てないからわかんないじゃん。だから行くんじゃん」

夜邑は日瑚を見た。
息を少し弾ませている。
髪の先が外の風で乱れていて、見つけたものを今すぐ誰かに見せたい、という顔をしていた。

夜邑は本に栞を挟む。

「今じゃないとだめ?」

「今がいい」

日瑚は迷いなく言い切った。
その言い方には、理由らしい理由がない。
夜邑は少し迷ってから、息を吐くように返事をした。

「……士堂さんが許可をくれたら、十分だけ。」

「やった!」

日瑚の顔がぱっと明るくなる。

「士堂さん、夜邑くん貸してー!」

カウンターの奥で、士堂が棚の整理をしていた手を止める。

「おい、時給払ってんだぞ」

「お客さん来ないって!」

「決めつけるな」

日瑚は、もう店の外に出ていた。
石畳の上に立って、ガラス越しに大きく手を振っている。
店の中より外のほうが少し明るくて、日瑚の声まで光に引っぱられているようだった。

「早く!夜邑くん!士堂さんが時給払ってるんだからね!」

「それは戻る理由でしょ」

夜邑は小さく息を吐いた。
それから、少しだけ笑って本を置き、カウンターの内側から出る。

「十分だけだから」

「わかってる!」

「絶対わかってないでしょ」

夜邑が店を出ると、入口のベルがもう一度鳴った。
日瑚は待ちきれないように一歩先へ跳ねる。
雨の名残がまだ少し残る石畳の上で、青と黄色の看板があるらしい裏道のほうへ、迷いなく歩き出した。

夜想喫茶 灯下堂

— SCENE 08 —

灯下堂の夜はまだ少し

「おい日瑚!しっかりやれ!」

燈裡の声が、灯下堂の奥で跳ねた。
閉店までにはまだ少し時間がある。客の波が引いた店内には、カウンターの中で士堂がグラスを磨く音と、奥の席から聞こえるゲームの効果音だけが残っていた。
小さなテーブルを挟んで、燈裡と日瑚がスマホの画面を覗き込んでいる。日瑚は画面を見ながら、けらけら笑っていた。

「いや、今のはあっくんが突っ込みすぎ!」

「お前が見てねぇからだろ!」

「見てた見てた!なんか雰囲気で察知してた!」

「雰囲気でやってんじゃねーよ!」

夜邑はその隣で本を読んでいた。
けれど、ページはさっきから一枚も進んでいない。
活字の上を目だけが滑って、意識はほとんど二人のほうへ持っていかれている。

「燈裡、声うるさい」

「そこまで出てねぇし」

「出てる」

「静かにしろ」

士堂もカウンターの向こうから言った。
燈裡は口を閉じた。
三秒、店内が静かになる。

その直後、燈裡はまた画面を見て叫んだ。

「は!?今の当たってんだろ!くそ判定が!」

日瑚が笑いすぎて、椅子から落ちそうになる。

「あっくん、顔がアイドルじゃない!」

「アイドル関係ないだろ!」

「でも今の顔は絶対カメラに抜かれちゃだめなやつ~!」

「誰が抜くんだよここで!」

夜邑は本から顔を上げた。
燈裡は眉を寄せて画面を睨み、日瑚は笑いながらスマホを持つ手を揺らしている。
二人の間で、ゲームの小さな音だけがやたら忙しく鳴っていた。

「一回休憩したら」

「まだ勝ってない」

「勝つまでやると、閉店時間になるぞ」

士堂が淡々と言う。

日瑚がぱっと手を挙げた。

「じゃあ負けた人、コンビニでアイス買ってきて!」

「お前が一番負けてんだよ」

「まじ?」

「お前、自分に罰ゲーム出してんのかよ!」

燈裡がぶはっと吹き出して笑った。
日瑚は画面を覗き直して、それから「あれ?」という顔をする。

「ほんとだ。めっちゃ負けてる」

「今気づいたのかよ」

「雰囲気では勝ってた」

「雰囲気で勝敗決めんな」

燈裡がまた笑う。
夜邑も、静かに本を閉じた。

「じゃあ、全員で行く?」

その一言に、日瑚の顔がぱっと明るくなる。

「え、めっずらし!夜邑くんが乗ってきた」

士堂はレジ横の時計を見る。

「行くなら十分で戻れよ」

「士堂さんは?」

「店があるだろうが」

「チョコ味買ってきてあげるね」

日瑚がにこにこしながら言う。
士堂から返事はなかった。
ただ、磨いていたグラスを棚に戻すと、レジ横の小皿から小銭をいくつか取って、カウンターに置いた。
三人分より、少し多い。日瑚がそれを見てまた笑った。

「早く行け」

「はいはい!」

日瑚が小銭を拾い、燈裡がキャップをかぶり直す。
夜邑は閉じた本に栞を挟んで、椅子から立ち上がった。

入口のベルが鳴る。
三人が外へ出ると、灯下堂の中は急に静かになった。
士堂はしばらく扉のほうを見ていたが、やがて何事もなかったようにカウンターへ戻る。
外の石畳を駆けていく日瑚の声と、燈裡の文句と、夜邑の低い返事が、ガラス越しに少しだけ聞こえた。

夜想喫茶 灯下堂