— SCENE 07 —
灯下堂は、まだ客を入れる前の匂いがしていた。
磨いたばかりのカウンターには、低い照明が細く映っている。棚の奥では、伏せたカップの白や、背の高いグラスの縁が、暗がりの中で静かに並んでいた。
その内側に、夜邑が立っている。
店の奥では、士堂が古い時計の部品を整理していた。
小さな歯車が皿の上でかすかに触れ合い、その音だけが、開店前の灯下堂に残っている。
「士堂さん」
「なんだ」
「このカップ、ここで合ってますか?」
士堂は手元から目だけを上げた。
夜邑がカップを手に、棚を指さす。
「そいつは左から三番目だ」
「二番目にしたんじゃなく?」
「どういうことだ?」
「昨日は二番目にあったので」
士堂の指先が、歯車の上で止まった。
「……よく見てるな」
夜邑はカップを左から三番目の位置に戻した。
陶器が棚板に触れて、小さく鳴る。
「こういう配置、決まってるんですか」
夜邑は棚の前から一歩引いて、カップの列を見直した。
白いもの、薄く青の入ったもの、口の広いもの。どれも少しずつ高さが違うのに、並びは不思議と乱れていない。
「一応な」
「一応にしては、ずれると気にしますよね」
士堂は皿の上の部品を仕分けながら、少しだけ目を細めた。
「なら覚えろ」
夜邑はもう一度、棚を見た。
並んだカップやグラスの高さ、間隔、置き方。
そこには、士堂の癖と、この店に流れてきた時間が、少しだけ残っている気がした。
「……わかりました」
士堂は時計の部品を置き、カウンターの中へ入ってきた。
夜邑の隣に立つと、棚ではなく入口のほうへ顎を向ける。
「あと、ここに立つときは、客の顔ばかり見るな」
「見てません」
「見てるだろう」
そのとき、入口のベルが鳴った。
夜邑は反射的に背筋を伸ばした。けれどすぐには声を出さず、ほんの少しだけ間を置いてから、入口へ顔を向ける。
「いらっしゃいませ」
声は大きくない。
けれど、灯下堂の静けさにはちょうどよかった。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 01 —
灯下堂の扉のベルが鳴った。
いつものように軽く跳ねる音ではなく、少しだけ慎重な音だった。
開けた人間が、なるべく目立たないように扉を押したのだとわかる。
夜邑はカウンターの内側で、伏せていたグラスを棚へ戻していた。
音に気づいて顔を上げる。
入ってきた青年は、キャップを深く被り、眼鏡をかけ、その上からパーカーのフードを被っていた。
顔の半分は影になっていて、外の通りから見れば、誰なのかすぐにはわからない。
「おつかれ」
その一言で、燈裡は肩から力を抜いた。
「……マジで疲れた」
扉が閉まる。
ベルの余韻が、店の静けさに溶けていった。
テレビの中なら、きっと太陽みたいに笑っている。
雑誌の表紙なら、まっすぐこちらを見ている。
ステージの上なら、誰かの瞳を照らしている。
でも今、灯下堂の扉を閉めた燈裡は、ただの二十歳の青年だった。
フードの奥で、燈裡は小さく息を吐く。
外に置いてきた顔を、まだ完全には脱ぎきれていないみたいだった。
「誰もいない?」
「いない」
「士堂さんは?」
「いるよ」
「じゃあ誰もいないのと一緒か」
「聞こえてるぞ」
カウンターの奥から、士堂の声がした。
燈裡は少しだけ笑った。
その笑い方も、画面の中で見るものよりずっと薄い。
「すんません」
「謝る気ないだろ」
「そんなことないっす」
燈裡がカウンターの椅子に近づく。
座るより先に、士堂はもうコーラを用意していた。
「ここ、置いておくぞ」
「あざす」
燈裡は椅子に座ると、背中を丸めるようにして深く息を吐いた。
キャップもフードも取らないまま、グラスを両手で包む。
冷えた水滴が指に触れて、ようやく少しだけ現実に戻ってきたような顔をした。
夜邑はそれを見ていたが、何があったのかは聞かなかった。
士堂も何も言わず、カウンターの奥でグラスを磨いている。
燈裡はコーラを一口飲む。
それから、やっとフードを外した。
キャップのつばの下で乱れた髪が少し見える。
「……ただいまって感じするわ」
夜邑は少しだけ目を上げて、棚に戻しかけていたグラスを、そっと置いた。
「じゃあ、休んでいけば」
「ん」
燈裡はもう一度、深く息を吐いた。
今度の息は、さっきより少しだけ軽かった。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 02 —
窓の外では、先ほどまで降っていた雨が石畳を濡らしていた。
通りを行く人の足音はいつもより少なく、店の中には柱時計の音と、カウンターの奥で湯の沸くかすかな音だけがある。
その静けさを破るように、扉が勢いよく開いた。
カランカラン、とベルが賑やかに鳴る。
「ねぇねぇねぇ!見て見て見て!めっちゃ可愛い猫いた!路地裏の主って感じ! 俺、完全に認められた!」
飛び込んできたのは日瑚だった。
明るい髪。大きな声。手にはスマホ。
濡れた石畳を走ってきたのか、靴先には小さな水滴がついている。
肩も少し雨に濡れていて、パーカーの袖口の色が濃くなっていた。
顔には、日瑚という名前をそのまま表したみたいな満面の笑みがある。
「夜邑くん見て!これ絶対俺にウインクしてるよね!?」
日瑚はカウンターに駆け寄って、スマホの画面を夜邑の前に差し出した。
画面の中には、路地裏の濡れた室外機の上に座る猫がいた。
灰色まじりの毛を少し膨らませて、片目だけを細く閉じている。
夜邑は本から顔を上げ、画面を覗き込む。
「目、片方閉じてるだけじゃない」
「それをウインクって言うんだよ!」
「猫には言わないんじゃない?」
「えー!言うでしょ!」
日瑚はにぱっと笑った。
その声に、柱時計の音が一瞬だけ負けた。
カウンターの奥で、士堂が布巾を持ったまま目を細める。
「騒がしいな」
「あっ、見てよ士堂さん、この猫!絶対この路地のボスだよ!」
日瑚は笑って、濡れた前髪を指で軽く払った。
床に小さな水滴が落ちる。
その足元から、泥の混じった水の跡が、入口からカウンターまで点々と続いていた。
士堂が無言で日瑚の足元を見た。
日瑚はその視線に気づいて、ぱっと背筋を伸ばす。
「あ、拭く!拭きます!」
入口のマットの上で、日瑚が靴先をばたばたさせる。
雨の匂いが、開いた扉の名残みたいに店の中へ少しだけ入り込んでいた。
夜邑はカウンター越しに、もう一度スマホの中の猫を見る。
片目を閉じた灰色の猫は、確かに主のような顔をして偉そうで、少しだけ可愛かった。
「……可愛いね」
夜邑が小さく言う。
日瑚の顔が、ぱっと明るくなった。
「でしょ!?」
また声が大きくなる。
柱時計が、こつ、こつ、と音を刻む。
曇った空とは反対に、灯下堂は少しだけ明るかった。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 03 —
「俺、思いついたんだけど!」
日瑚の明るい声が、灯下堂の中に弾んだ。
カウンターの端では燈裡がコーラを飲んでいて、夜邑はその隣で本を開いている。
士堂はカウンターの向こうで、古い時計の部品を布の上に並べていた。
日瑚のその声を聞いた瞬間、燈裡が露骨に嫌な顔をする。
「もう嫌な予感しかしねぇ」
「今度さ、この店で一日だけ展示やろうよ!時計とポップアート!絶対かわいいって。古い時計の横に、めちゃくちゃ派手な絵とか置くの」
日瑚はもう店の中を見回している。
棚の上、壁際、入口の横。日瑚の視線は、置けそうな場所を次々に探していく。
「で、あっくんは変装して歌って、夜邑くんは朗読とか?士堂さんは……渋く立ってるだけでいいかな」
「歌わねぇよ!なんで身バレ寸前ライブしなきゃなんねぇんだよ!」
「大丈夫、タイトルは『匿名のアカリ』にする!」
「バラしにいってんじゃねぇか!」
燈裡が声を上げる。
日瑚は楽しそうに笑う。
「じゃあ仮面つけよ」
「余計怪しいだろ」
「照明暗めにして」
「ここをライブハウスにすんな」
「時計の音に合わせて歌うとか」
「怖ぇよ!」
夜邑は本から顔を上げた。
「朗読って、何を読むの」
「店の説明文とか読んでよ。静かな声で」
「それは朗読じゃなくて案内じゃない?」
夜邑は口元だけで少し笑った。
士堂はカウンターの向こうで、深くため息をつく。
「……お前たちな」
その声に、三人が一斉に士堂を見る。
士堂は並べていた時計の部品から目を上げずに言った。
「まず、店主に許可を取れ」
日瑚がぱっと手を挙げる。
「士堂さん、やっていい?」
「だめだ」
「却下するのはやすぎ!」
「当然だろ」
日瑚はむう、と頬をふくらませた。
燈裡はそれを見て笑い、夜邑はまた本に目を落とす。
カウンターの向こうで、士堂が時計の部品をひとつ摘み上げる。
こつ、と小さな金属音がした。
日瑚の思いつきは、却下されたはずなのに、灯下堂の中にはしばらく、その明るさだけが残っていた。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 04 —
灯下堂のカウンターに、古い懐中時計が置かれている。
士堂はルーペを片目に当てたまま、細い工具で中の歯車を調整していた。
店内には、秒針の音だけがいくつも重なっている。
「ねぇ士堂さん。これ、動くようになるの?」
日瑚がカウンターに肘をつきながら覗き込む。
「なる」
士堂は短く答える。
「え、かっこよ。こんな古いのなおるんだ」
「大袈裟だな、ただの修理だ」
夜邑は端の席で本を開いたまま、その一瞬を見ていた。ページをめくる音だけが小さく響く。
「士堂さん、チョコある?」
日瑚が突然言った。
「ない」
「あるでしょ。絶対ある顔してる」
士堂は無言で工具が入っている引き出しを閉めた。閉めるのが少し遅かったせいで、銀紙の包みがひとつ見えた。
「あっ!ほらー!」
日瑚が笑う。夜邑も、声を出さずに口元だけで笑った。
「……一個だけだぞ」
士堂は観念したように、チョコをひとつカウンターへ置く。
日瑚はそれを受け取り、半分に割って夜邑に渡した。
「げっと!夜邑くんも食べよ」
「別に俺はいらないんだけど……」
そう言いながら、夜邑は受け取る。
士堂は何も言わず、また懐中時計へ視線を戻した。けれどその横顔は、さっきよりほんの少しだけ柔らかかった。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 05 —
灯下堂は、閉店間際の静けさに沈んでいた。
客の気配はもうなく、カウンターの上には拭き終えた跡が淡く残っている。
入口の外では、雨のやんだ路面を、ときどき車の音が遠く滑っていった。
それでも、燈裡はまだカウンターにいた。
目の前のコーラは、氷だけが残っている。
グラスの底で溶けかけた氷が、薄い音を立てた。
「帰らないの」
夜邑が本を閉じながら言った。
「帰る」
「さっきも言ったじゃない」
「今から帰る」
「それもさっき言ってたよ」
燈裡は返事をせず、空になったグラスを指先で少し回した。
からん、と氷が小さく鳴る。
士堂がカウンターの奥から言った。
「明日、早いんじゃなかったか」
「早いっすね」
「なら寝ろ」
「そっすね」
キャップのつばの下で、燈裡の目はグラスの中ばかり見ている。
帰りたくないというより、帰ったあとに来る時間を避けているように見えた。
けれど、夜邑はそれを口にはしなかった。
「明日の現場、嫌なの?」
「別に」
「じゃあ、眠れないだけ?」
「……お前、そういうとこあるよな」
「どういうとこ?」
燈裡は少し笑った。
笑ったあとで、また黙った。
店の奥で、士堂が洗い終えたグラスを棚に戻す音がした。
ひとつ、ふたつ。
静かな店内では、それだけでも夜が少し深くなったように聞こえる。
「小学生のときさ」
「うん」
「発表会の前の日、俺、眠れなかったじゃん」
「うん」
「お前、何も言わずに漫画貸してきたよな」
「覚えてない」
「お前、絶対覚えてるだろ」
夜邑は少しだけ目を伏せてから、鞄を開けた。
中から文庫本を一冊出して、カウンターに置く。
「今日は漫画じゃないけど」
「読めって?」
「眠れなかったらね」
「つまんなかったら?」
「よく寝られるだろうね」
「は?つまんないもん貸すなよ」
燈裡は文句を言いながらも、文庫本を手に取った。
表紙を眺め、裏返して、また表に戻す。
士堂が店の灯りをひとつ落とした。
カウンターの端が少し暗くなり、窓の外の夜が、さっきより近く見えた。
「帰るなら送るぞ」
「や、大丈夫っす」
燈裡は椅子から立ち上がった。少し迷うように文庫本を見て、それから鞄に入れる。
「借りるわ」
燈裡はマスクをしてからキャップを深くかぶった。
「じゃ」
「おやすみ」
「夜道、気を付けろよ」
燈裡は返事の代わりに片手を上げて、店を出た。
入口のベルが、閉まる扉の向こうで小さく鳴る。
雨上がりの石畳に、灯下堂の明かりが薄く伸びていた。
燈裡の背中はその明かりを少しだけ踏んで、それから夜のほうへ抜けていった。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 06 —
「夜邑くん、行こ!」
日瑚が灯下堂のドアを開けるなり言った。
昼下がりの光が、日瑚の背中から店の中へ差し込む。
入口のベルが遅れて小さく鳴り、カウンターで本を読んでいた夜邑は、ページから顔を上げた。
「どこに?」
「わかんない!」
「わからない場所に誘わないで」
「いやほんと、よくわかんないの!」
日瑚はドアを片手で押さえたまま、もう片方の手で外のほうを指した。
「裏道で変な看板見つけたんだよ。青と黄色でさ、めちゃくちゃ変。たぶんギャラリーか雑貨屋か、なんかそういうやつ」
「わかってるじゃない」
「まだ見てないからわかんないじゃん。だから行くんじゃん」
夜邑は日瑚を見た。
息を少し弾ませている。
髪の先が外の風で乱れていて、見つけたものを今すぐ誰かに見せたい、という顔をしていた。
夜邑は本に栞を挟む。
「今じゃないとだめ?」
「今がいい」
日瑚は迷いなく言い切った。
その言い方には、理由らしい理由がない。
夜邑は少し迷ってから、息を吐くように返事をした。
「……士堂さんが許可をくれたら、十分だけ。」
「やった!」
日瑚の顔がぱっと明るくなる。
「士堂さん、夜邑くん貸してー!」
カウンターの奥で、士堂が棚の整理をしていた手を止める。
「おい、時給払ってんだぞ」
「お客さん来ないって!」
「決めつけるな」
日瑚は、もう店の外に出ていた。
石畳の上に立って、ガラス越しに大きく手を振っている。
店の中より外のほうが少し明るくて、日瑚の声まで光に引っぱられているようだった。
「早く!夜邑くん!士堂さんが時給払ってるんだからね!」
「それは戻る理由でしょ」
夜邑は小さく息を吐いた。
それから、少しだけ笑って本を置き、カウンターの内側から出る。
「十分だけだから」
「わかってる!」
「絶対わかってないでしょ」
夜邑が店を出ると、入口のベルがもう一度鳴った。
日瑚は待ちきれないように一歩先へ跳ねる。
雨の名残がまだ少し残る石畳の上で、青と黄色の看板があるらしい裏道のほうへ、迷いなく歩き出した。
夜想喫茶 灯下堂
— SCENE 08 —
「おい日瑚!しっかりやれ!」
燈裡の声が、灯下堂の奥で跳ねた。
閉店までにはまだ少し時間がある。客の波が引いた店内には、カウンターの中で士堂がグラスを磨く音と、奥の席から聞こえるゲームの効果音だけが残っていた。
小さなテーブルを挟んで、燈裡と日瑚がスマホの画面を覗き込んでいる。日瑚は画面を見ながら、けらけら笑っていた。
「いや、今のはあっくんが突っ込みすぎ!」
「お前が見てねぇからだろ!」
「見てた見てた!なんか雰囲気で察知してた!」
「雰囲気でやってんじゃねーよ!」
夜邑はその隣で本を読んでいた。
けれど、ページはさっきから一枚も進んでいない。
活字の上を目だけが滑って、意識はほとんど二人のほうへ持っていかれている。
「燈裡、声うるさい」
「そこまで出てねぇし」
「出てる」
「静かにしろ」
士堂もカウンターの向こうから言った。
燈裡は口を閉じた。
三秒、店内が静かになる。
その直後、燈裡はまた画面を見て叫んだ。
「は!?今の当たってんだろ!くそ判定が!」
日瑚が笑いすぎて、椅子から落ちそうになる。
「あっくん、顔がアイドルじゃない!」
「アイドル関係ないだろ!」
「でも今の顔は絶対カメラに抜かれちゃだめなやつ~!」
「誰が抜くんだよここで!」
夜邑は本から顔を上げた。
燈裡は眉を寄せて画面を睨み、日瑚は笑いながらスマホを持つ手を揺らしている。
二人の間で、ゲームの小さな音だけがやたら忙しく鳴っていた。
「一回休憩したら」
「まだ勝ってない」
「勝つまでやると、閉店時間になるぞ」
士堂が淡々と言う。
日瑚がぱっと手を挙げた。
「じゃあ負けた人、コンビニでアイス買ってきて!」
「お前が一番負けてんだよ」
「まじ?」
「お前、自分に罰ゲーム出してんのかよ!」
燈裡がぶはっと吹き出して笑った。
日瑚は画面を覗き直して、それから「あれ?」という顔をする。
「ほんとだ。めっちゃ負けてる」
「今気づいたのかよ」
「雰囲気では勝ってた」
「雰囲気で勝敗決めんな」
燈裡がまた笑う。
夜邑も、静かに本を閉じた。
「じゃあ、全員で行く?」
その一言に、日瑚の顔がぱっと明るくなる。
「え、めっずらし!夜邑くんが乗ってきた」
士堂はレジ横の時計を見る。
「行くなら十分で戻れよ」
「士堂さんは?」
「店があるだろうが」
「チョコ味買ってきてあげるね」
日瑚がにこにこしながら言う。
士堂から返事はなかった。
ただ、磨いていたグラスを棚に戻すと、レジ横の小皿から小銭をいくつか取って、カウンターに置いた。
三人分より、少し多い。日瑚がそれを見てまた笑った。
「早く行け」
「はいはい!」
日瑚が小銭を拾い、燈裡がキャップをかぶり直す。
夜邑は閉じた本に栞を挟んで、椅子から立ち上がった。
入口のベルが鳴る。
三人が外へ出ると、灯下堂の中は急に静かになった。
士堂はしばらく扉のほうを見ていたが、やがて何事もなかったようにカウンターへ戻る。
外の石畳を駆けていく日瑚の声と、燈裡の文句と、夜邑の低い返事が、ガラス越しに少しだけ聞こえた。
夜想喫茶 灯下堂